潜水服の中で、魂が向かう場所

マーティン・ピストリウスの『ゴースト・ボーイ』を読んだ後、同じくロックトインシンドローム(閉じ込め症候群)を描いた本書『潜水服は蝶の夢を見る』を手に取った。私は、マーティンの物語のように、絶望的な状況下でいかに精神を保ち、現実と向き合うか、その具体的な心の動きに強い興味を抱いていた。

読み進めるうちに、この本が持つ独特の世界に引き込まれていった。著者のジャン=ドミニク・ボービーの魂は、動かない肉体という「重い潜水服」を離れ、失われた過去のきらびやかな記憶や、自由な想像の世界へと、蝶のように飛翔していく。彼の紡ぐ言葉はウィットに富み、非常に文学的で美しい。ただ、正直に言うと、私が心のどこかで期待していたのは、蝶が舞う夢の物語よりも、潜水服の中でもがく、もっと生々しい現実との格闘だったのかもしれない。

そんな中で、ふと心に留まったエピソードがある。それは、ボービーが思いを馳せた、地下牢で2年間暮らした囚人の話だ。その囚人は、発狂しないように、知っている限りの詩や物語を、来る日も来る日も心の中で諳んじ続けたという。このエピソードに、私は強く惹かれた。思考に具体的な「タスク」を与え、精神の構造を保とうとするその姿勢は、私にとって一つの大きな発見だった。

この「諳んじる」という行為を考えた時、私の頭には、以前読んだヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の記憶が蘇った。強制収容所という極限状況で彼が見出した、「生きる意味」や「精神の自由」というテーマは、私の心に深く刻まれている。ボービーが蝶のように記憶の海を自由に舞うことで自己を保ったように、人はそれぞれ、自分だけの方法で魂の置き場所を見つけるのだろう。

『潜水服は蝶の夢を見る』は、疑いなく美しい一冊の文学作品だった。そして、この本を読んだことで、私は改めて、極限状態における人間の精神のあり方の多様性に思いを馳せることになった。蝶のように舞う魂もあれば、何かを必死に諳んじる魂もある。そして、フランクルのように未来への意味を見出す魂もある。この本は、私にそんな深い思索のきっかけを与えてくれた、忘れられない一冊となった。

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