STAP細胞騒動。連日メディアを賑わせたあの熱狂とバッシングの嵐を、私は今も鮮明に覚えている。小保方晴子さんの手記『あの日』を手に取ったのは、あの物語を「主役」とされた当事者の視点から、もう一度見つめ直してみたいと思ったからだ。読み終えた今、その内容は、私の大方のイメージ通りであり、同時に、この騒動の根底にある、より根深い問題を改めて突きつけてきた。
まず前提として、この本に書かれていることが、どこまで客観的な真実なのか、私には判断できない。これはあくまで、極限まで追い詰められた一人の当事者による、主観的な記録だ。しかし、この本を読んだことで一つだけ確信したことがある。それは、私たちが当時メディアを通して見ていたものは、複雑な事象の、ほんの断片的な切り抜きに過ぎなかったということだ。一つの出来事が、当事者の目には全く違う景色として映っていた。その厳然たる事実に、情報を受け取ることの難しさと怖さを改めて痛感させられた。
そして、この本は、個人の問題を超えて、専門家組織が抱える構造的な脆弱性をも示唆しているように思う。最先端の科学の世界は、私たち一般人には窺い知れない、閉鎖的な空間だ。そこでは、外部の目が行き届かないがゆえに、人間関係の力学や、本書で示唆されるような不正が、まかり通りやすい土壌があるのかもしれない。これは、科学の世界に限らず、今に始まったことではないのだろう。
だが、それらの問題をすべて脇に置いたとしても、一つだけ言えることがある。それは、この騒動の幕引きの仕方だ。組織やシステムが抱える問題点から目をそらし、一人の、若くメディア映えする研究者を「悪役」として仕立て上げ、社会全体の非難を集中させる。その構図を見る限り、小保方氏が、この巨大な物語の「スケープゴート」にされたのは、ほぼ間違いないように私には思える。
この本が私たちに問いかけるのは、STAP細胞の有無ではない。それは、一つの情報を鵜呑みにし、安易に誰かを断罪することの危うさだ。この騒動から私たちが本当に学ぶべきは、科学的な真実以上に、社会のあり方そのものなのかもしれない。
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