毎日、スマートフォンの画面を見つめ、パソコンの前でキーボードを叩く。私の日常は、情報や論理といった「脳」の活動ばかりで、自分の「身体」の声を聴く時間はほとんどなかった。養老孟司さんの『死の壁』は、そんな「脳化社会」にどっぷり浸かった現代人への、強烈な警告の書だ。
この本で養老先生が突きつけるのは、衝撃的な事実だ。「死は本人には体験できない」。私が「死ぬ」瞬間、私の意識はそこにないのだから、それは当然だ。私が体験できるのは、あくまで「死にゆく過程」まで。「死」そのものは、残された他者が認識する客観的な出来事に過ぎない。では、私たちがこれほどまでに恐れている「死」の正体とは、一体何なのだろうか。
養老先生はその答えを、現代の「脳化社会」に求める。私たちは身体的な感覚を失い、頭でっかちになっているからこそ、体験できないはずの「死」を過剰に恐れるのだと。かつての人々にとって、死はもっと身近なものだった。動物の死、人の死が日常の中にあり、命が循環する様を「身体」で感じていた。しかし、都市化され、あらゆるものが管理された現代社会で、私たちは死を遠ざけ、その実感を失ってしまった。その結果、頭の中だけで「死」というコントロール不能な概念をこねくり回し、漠然とした不安を増幅させているのだという。
この指摘は、まさに私のことだと思った。自然に触れることもなく、土の匂いや風の感覚を忘れ、バーチャルな情報にばかり心を動かされている。自分の身体が発する小さなサインさえ、無視してしまいがちだ。死という究極の身体的現実から目を背けているのは、日々の生活で自分の身体そのものから目を背けているからなのだ。体験できないはずの死を恐れるのは、生きている実感、つまり身体感覚が希薄になっていることの裏返しなのかもしれない。
この本を読んでから、私は意識して散歩をするようになった。足の裏で地面を感じ、季節の匂いを嗅ぎ、鳥の声を聴く。そんな当たり前の行為が、自分の「身体」を取り戻し、自分もまた自然の一部なのだと感じさせてくれる。死の壁を乗り越える第一歩は、頭の中だけで作り上げた幻想の恐怖から抜け出し、自分の身体という確かな現実を、もう一度信頼することなのだと、強く思った。
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